先日、今年初めての百舌の高鳴きを聞きました。もう日本はずっと夏のままなのか、と思えるほどにつらい暑さの果てのささやかな秋の気配に、少しだけほっとしている次第でございます。
ワオランドに1日いると実にたくさんの生き物を見かけます。「珍しいもの見たなー」と思うような野鳥やたくさんの昆虫、カエル、ヘビ、クモ。今年の夏は本当にたくさんの生き物を見ることができ、実は少し得をした気分です。その中でも印象に残っているものをひとつ。
夏特有の青色をした空の向こうから昆虫の重たげな羽音が響いてきます。羽音に誘われて空を見渡せば、厳しい太陽光線に反射して、きらきら、信じられないほど美しい緑色に輝く甲虫が、重たげに飛翔しています。やがて倒木の上に羽を休めると急ぐでもなく歩きはじめます。古来の宝玉のような昆虫、タマムシです。
この美しい甲虫を、何とか飼育してみたいと思い虜にしては持ち帰るのですが二週間ほどで死んでしまいうまくいきません。食べるものがわからないのです。若芽を食べるのではとか諸説聞きましたが水しか飲まない、食べる機能そのものがない、という話も聞きました。
吉野弘という詩人の作品の中に「I
was born」という詩があります。I was born という言葉から産まれるということはまさしく「受身」なんだと諒解した少年が、食べる機能を持たずただ卵だけが充満したカゲロウを知り感銘を受けるというような内容でした。「卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉元まで こみあげているように みえるのだ。」
命を維持する為に「食べる」ということは大変なことです。私たち日本に住むものは、幸いほとんどの人が食を快楽としてとらえることができるような、恵まれた環境に生きています。が、たとえば未消化のコガネムシと何かの布が固まっただけの野良猫の糞を見れば、「食べる」ということが、いかに苦行であるかがしのばれます。
永く命をつなげる為に、まさに命を懸けて「食べる」。そのプロセスを幸せというのか、生きるために「食べる」という苦行から開放され短い命を謳歌するのを幸せととらえるか、いずれにしろ夕食の献立を楽しみに一日を過ごしているような私には、いささか命題が重過ぎて…。
とそのようなことをつらつら考えるうちに、肝心のタマムシの食べ物に関してはうやむやになってしまいましたが、来期までにはしっかり調べておきたいと思います。
日々、季節は巡り、やがてまた毎年同じように厳しい冬がやってまいります。が私たちにとっては今年の冬は一度限りです。思い出深い素敵な冬を過ごされますように。ではごきげんよう。
|